樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』

「ボクと同世代かな」と思いながら読んでいたら大体似たり寄ったりでした。思弁的マッシュアップとでも申しますか、タチの悪いこととは思いつつもあれやこれや(いわゆるゼロ年代? あはは)の影響下におかれた作品として消化(←わざとです)しました。あたくしブンケーの知識は皆無ですのでデリダとかフーコーとか言われてもよくわかりません。選評を読んでみたいです。えーっと、いまのSF新人賞は確か筒井とか神林? 筒井だったらなにかわかるのかなぁ。ともかく、ボクにはコムズカシくてとらえどころのない小説でした。マッシュアップと断ずるからにはあれやこれやからなにか新しい価値観が創造されていることを確認してしかるべきなんですけどね。えぇ、よくわかりません。

もしかしたらこの小説の原動力はエリクソンなんかに代表されるあの手の<幻視力>なのかもしれないけど、でもどうやらこの作者の場合は自らの言葉にがんじがらめになってそれどころじゃあなかったみたい。意図的かどうかはともかく、島の全景も学校の佇まいもそこにいる人間もが、配置される過程で一切の意味を剥ぎ取られているせいなのか、ただの現象としてしかボクには見えなくて。たぶん再配置しながら文脈との相互作用を加味しつつ別の流れが構成されてるのでしょうね。とはいえ、それは僕の理解する言葉ではなかったのです。つまり、これだけはボクにもわかるんだけど――この作者は破壊的すぎる。エクリチュールってそんなに過激な反応を引き起こすものだったわけ?

一部の幸せな読者のために書かれたのだとすればボクはそれに漏れた不幸な読者ということになりますか。残念だね。うん、とても残念だ。