(承前)

なーんちゃって。つまりギックリ腰でエオルゼアに行くことすらままならなかったので『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』を読んだよー。

まず『狂骨の夢』。たぶん京極夏彦が<本格ミステリー>というのを自覚的に実践した最初の作品。いまの若い人は知らんじゃろうが、そのむかし島田荘司というそれは偉い偉いミステリ作家がおってのぅ、その御大が「本格ミステリーとはなんぞや」との問いに対して「幻想的な謎が論理的な推理で解体される話」と定義したのでございますよ。ここで重要なのは<島田荘司>が<本格ミステリー>を<幻想的な謎が論理的な推理で解体される話>と<定義した>ことであって、すなわち「本格ミステリーとは幻想的な謎が論理的な推理で解体される話である」という言明が公理として成立したわけじゃあないということ。言ってしまえば島田荘司は「こういうミステリを書けば売れると思うよ」っていうガイドラインを明示しただけ。島田荘司がすごいのは『暗闇坂の人喰いの木』でもって本当にそれを実践してしかもマジで面白いものを書いちゃったということ。ただその後の『水晶のピラミッド』がどうにもこうにもゲフンゲフンだったので僕は飽きちゃった。いま直感的に「もしかしたら『眩暈』は『狂骨の夢』のサブテキストとして成立しているのかも」と考えたけど、読んでないからわかんないや。えへへ。閑話休題。『狂骨の夢』の<謎>は「夫を4回殺した妻」と「海に浮かぶ金色髑髏」っていうそれはもう<島田本格>の名に恥じない素晴らしい<本格ミステリー>なわけです。あぁそうだ忘れてた。どっかの原理主義的偏執狂が「本格推理小説における解決は作中における手がかりから論理的に導かれなければならない」だなんて言っていたので、もちろん『狂骨の夢』もちゃんとすべての手がかりが提示されているわけです。ただそれが今回の場合はあのユダヤ人なだけです。ただ、この『狂骨の夢』、初めて読んだときは「ふぅん」だったし、15年ぶりに読んだいまでもやっぱり「ふぅん」だった。なにが悪いのかは一目瞭然。これが<島田本格>だから。笠井潔だったかな、「島田本格って枯れ尾花になっちゃうのよねぇ」と言っていたまさにそれ。たぶんに感性によるものが多いとは思うものの、僕は枯れ尾花的「ふぅん」な作品だと、いままたそう思っちゃったわけ。だから、面白かったけど、日を追うごとにどんどん中身を忘れている。

で、『鉄鼠の檻』。先程ちらりと話題にでた「本格推理小説における解決は作中における手がかりから論理的に導かれなければならない」という言明について、その原理主義的偏執狂はなぜかその前提条件に「いま僕らが実際に生活している僕らの知り得ていることのみが常識として成り立っている僕らの住んでるこの世界における」というのを置いてしまっているんだけど、実はそんなことをしなくても本格ミステリは成立しちゃう。スタニスワフ・レム『捜査』と山口雅也『生ける屍の死』。どっちもその世界は変。でも原理主義的偏執狂の主張にある本格ミステリとしてどれも成立する。なぜならどっちの作品も「解決」が「論理的に導かれている」から。特に『捜査』は強烈で、みんなに読んでもらいたいんだけど「だって統計的に処理したらそういう解決になるんだもの。探偵的推理がちっとも解決になってない以上、これが正解ですわ。いやぁ世の中不思議なことがいっぱいね」が真相。つまり、「論理的でさえあれば本格ミステリって読んでいいんだよね?」という問いかけ。もちろん『捜査』が書かれた時代にもレムの住んでたポーランドにも<本格>だなんてヘンチクリンな言葉はなかったわけだけど、それでも批評性は抜群じゃあなかろうかと。とはいえレムはミステリが大っ嫌いだったらしいのでどういう意図で『捜査』を書いたのかは、まぁアレっすな。閑話休題。『鉄鼠の檻』はそんなわけで「アーベル群っつったって実数もあれば複素数もあるわいな」な感じで、僕らのこの世界の代わりに「禅」の場を敷いちゃった。推理は「禅」でやらなきゃいけないし、当然解決も「禅」。「禅」がないと解決できない。もともと京極夏彦は、不可解な現象を妖怪っていう軸に射影して解釈するっていうビックリするような推理法を見つけちゃったわけだけど、世界そのものを別のものにスライドさせちゃって見事着地したのがこの作品のすごいところ。『捜査』も『生ける屍の死』も大好きだし、もっと言うなら『第八の日』も『ガラス箱の蟻』も大好きな僕が、この作品が嫌いなわけがないじゃない。

それから『絡新婦の理』。いまの若い人は知らんじゃろうが、そのむかし誰が言い出したか「後期クイーン問題」というのがあってだねぇ、とはいえ僕はその後期クイーン問題が結局なんなのかよくわかってないので引用(1)「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」(2)「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」だってさ。僕はこのこれを見るたびに「誰かソーカルしねぇかなぁ」とワクドキしてたんだけどついぞそういうことにはならなんだ。ゲーデルがどうだのハイゼンベルグがどうだの、いまだになにがなにだかわかってない。真面目に読んでないだけなんだけどね。これの(1)については麻耶雄嵩が『メルカトルと美袋のための殺人』で明確な答えを出しちゃってる。(2)についてはクイーン自身が『帝王死す』で見切っているような気がしてる(僕が勝手にそう思ってるだけだよ、為念)。両方についてバチコーンと見切ったのが『絡新婦の理』。それぞれ榎木津と京極堂がその役割を果たしてる。あとこの話はプロットが綺麗だよね。真相が繰り込まれて折り畳まれてあるべきところに収まっちゃってる。「この時代に構造主義はまだないんじゃないの?」というツッコミはさておき、京極堂の自己言及的な言説が作品自体の性質と相まってとてもとても面白い。

そんなわけで京極夏彦。むかし読んだときはちっともワケわからんかったけど、いま読んだら大層いろんなものがぶち込まれていることがよくわかった。こりゃあ楽しい。ホントは『絡新婦の理』で終わる予定だったんだけどついつい調子にのって『塗仏の宴』に突入しちゃった。実は『塗仏の宴』は一度読んでいるはずだけど全然覚えてない。「すげーツマラナイ」と感じて以降京極夏彦の本は殆ど読んでない。『嗤う伊右衛門』とか『ルーガルー』とかちっとも。とりあえず『邪魅の雫』まで読んでまだまだ勢いが衰えなかったら京極夏彦再評価、ということで。