ン年ぶりにSF Japanを買ってきた。確か古橋秀之が書いた『終点:大宇宙!』が掲載されたのを最後にパッタリ止めてたはず。理由は特になくて、単純にリアル書店で見つけられないことが続いたから、ってだけの話。「京極夏彦が百鬼徒然袋の短編を掲載し始めた前後のメフィストみたいに難儀なアクセス性」と言ったらたぶん僕と同世代の人はわかってくれるでしょうかね。

今回購入した理由は日本SF大賞の選評が読みたかったから。以前お話しした通り、あたくし、『新世界より』が大っ嫌いな人間なので、なぜ日本SF大賞に選ばれたのか、その理由を知って、僕のこの了見の狭さを補正してあげようと思ったのでした。

で、今回めでたく受賞となった理由は「みなさん消極的賛成で臨み、否定派の意見がアズマンの「無駄に長い」しかなかったから、反対する理由もない」でOKなのかな。「オマイはジジイかよナベジュンかよ」と軽い突っ込みをいれてあげればよかったのに。なんで小説に対して「情報量と媒体サイズが単純に比例する」なんていう楽観的な姿勢が成立するのかちっともわかりません。例えば、「春のポカポカの公園でずっと座りっぱなしのおじいちゃん」を山尾悠子が書いたり、「仮面ライダーの中の人が朝起きて歯を磨くところ」を佐藤哲也が書いたり、「ただの鉄塔」を皆川博子が書いたり、「職場の昼休みにシエスタしているときの生温い感覚」を飛浩隆が書いたり、そういうどーでもいいところにその作家の持てる力を存分に注ぎ込むのが、僕は大好きです。すべての小説にありがたーい教訓があるとは思わない方が、身の安全のためになると思うんだけどね。

閑話休題。つまりはやっぱり「千年後の未来からのメッセージという設定」という設定が、もうほんとに単純な「設定」でしかなくて、むしろ小説としての成立を阻む枷にしか見えないことが、僕がこの作品を嫌いな理由だと考えるわけです。だって、そんな話を前面に出されて、俺、どーすればいいのよ? 「驕るなクソ人類」が割とマジな話かもしれないという点に、「もう21世紀なのに」とうっすら不安を感じてしまう、そんな俗なる酔っぱらいの小咄でした。

ところでSF新人賞と言えば思い出すのが谷口裕貴。この人の『獣のヴィーナス』連作が、僕はほんっとうに大好きなんです。「早く単行本にならないかな」と思い続けてもう5年以上経つのか。。。悲すぃ。