オレン・スタインハウアーの新刊を買いに出かけたらミネット・ウォルターズの新刊があったのでギャーとわめいて購入。しかし帰宅して確認してみたら、サラ・ウォーターズだった。ぼく、まだこの人の本を読んだことないのよねぇ。

ところで。

  • 『エアーズ家の没落』
  • 『アッシャー家の崩壊』
  • 『蘆屋家の崩壊』
  • 紙魚家崩壊』
  • 『伊園家の崩壊』

ほかになにかそんな感じのタイトルあったかな。諸星大二郎栞と紙魚子シリーズで家全体が稀覯本でできてて一冊抜いたら倒壊したって話もそんな感じだったっけ。

ミネット・ウォルターズの新刊は気長に待つとして、とりあえず食わず嫌いはイクナイので黙って読みます。あと、山田正紀絶賛ってやつも。

うわぁ。オレン・スタインハウアーの新刊が早川から出てるようトム・ロブ・スミスなんかよりも20倍は面白いと思うのに、なーんか地味な評判しかないんだよなぁ。『チャイルド44』をリドリー・スコットが映画化するんだったら、『嘆きの橋』をトニー・スコットが映画化すればいいのに。

あぁ、でも、僕はいまメフィスト系のミステリにハマっているのだー。京極夏彦は『百鬼夜行 陰』を読んでいる最中だけど、ちょっとだけ殊能将之に寄り道している最中。ホントは西澤保彦が読みたかったんだけど、ブックオフに『依存』がないかわりに『鏡の中は日曜日』があったのでした。ついでに『イニシエーション・ラブ』も買ってきたよ。『Jの神話』のあのアイツが人気作家になるだなんて誰が予想したものか。当時所属していたサークルのメンバーの総意は「こいつバカじゃないの?」だったなぁ。とはいえ安室奈美恵の例もあるから、思わぬ拾い物だったりすると嬉しいなぁと期待します。

塗仏の宴は魔法のようだね。だから気がついた。京極夏彦はやっぱり律儀な人だ。

[追記]

イニシエーション・ラブ』、1時間くらいで読めた。人生の貴重な時間のなかで1時間というのは決して少ないものではないとは思うものの、とはいえダメージは最小限に食い止められたと思っている。これが傑作だったら、北村薫やジル・マゴーンなどは50000年に一度のチョー白眉ですわな。

(承前)

なーんちゃって。つまりギックリ腰でエオルゼアに行くことすらままならなかったので『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』を読んだよー。

まず『狂骨の夢』。たぶん京極夏彦が<本格ミステリー>というのを自覚的に実践した最初の作品。いまの若い人は知らんじゃろうが、そのむかし島田荘司というそれは偉い偉いミステリ作家がおってのぅ、その御大が「本格ミステリーとはなんぞや」との問いに対して「幻想的な謎が論理的な推理で解体される話」と定義したのでございますよ。ここで重要なのは<島田荘司>が<本格ミステリー>を<幻想的な謎が論理的な推理で解体される話>と<定義した>ことであって、すなわち「本格ミステリーとは幻想的な謎が論理的な推理で解体される話である」という言明が公理として成立したわけじゃあないということ。言ってしまえば島田荘司は「こういうミステリを書けば売れると思うよ」っていうガイドラインを明示しただけ。島田荘司がすごいのは『暗闇坂の人喰いの木』でもって本当にそれを実践してしかもマジで面白いものを書いちゃったということ。ただその後の『水晶のピラミッド』がどうにもこうにもゲフンゲフンだったので僕は飽きちゃった。いま直感的に「もしかしたら『眩暈』は『狂骨の夢』のサブテキストとして成立しているのかも」と考えたけど、読んでないからわかんないや。えへへ。閑話休題。『狂骨の夢』の<謎>は「夫を4回殺した妻」と「海に浮かぶ金色髑髏」っていうそれはもう<島田本格>の名に恥じない素晴らしい<本格ミステリー>なわけです。あぁそうだ忘れてた。どっかの原理主義的偏執狂が「本格推理小説における解決は作中における手がかりから論理的に導かれなければならない」だなんて言っていたので、もちろん『狂骨の夢』もちゃんとすべての手がかりが提示されているわけです。ただそれが今回の場合はあのユダヤ人なだけです。ただ、この『狂骨の夢』、初めて読んだときは「ふぅん」だったし、15年ぶりに読んだいまでもやっぱり「ふぅん」だった。なにが悪いのかは一目瞭然。これが<島田本格>だから。笠井潔だったかな、「島田本格って枯れ尾花になっちゃうのよねぇ」と言っていたまさにそれ。たぶんに感性によるものが多いとは思うものの、僕は枯れ尾花的「ふぅん」な作品だと、いままたそう思っちゃったわけ。だから、面白かったけど、日を追うごとにどんどん中身を忘れている。

で、『鉄鼠の檻』。先程ちらりと話題にでた「本格推理小説における解決は作中における手がかりから論理的に導かれなければならない」という言明について、その原理主義的偏執狂はなぜかその前提条件に「いま僕らが実際に生活している僕らの知り得ていることのみが常識として成り立っている僕らの住んでるこの世界における」というのを置いてしまっているんだけど、実はそんなことをしなくても本格ミステリは成立しちゃう。スタニスワフ・レム『捜査』と山口雅也『生ける屍の死』。どっちもその世界は変。でも原理主義的偏執狂の主張にある本格ミステリとしてどれも成立する。なぜならどっちの作品も「解決」が「論理的に導かれている」から。特に『捜査』は強烈で、みんなに読んでもらいたいんだけど「だって統計的に処理したらそういう解決になるんだもの。探偵的推理がちっとも解決になってない以上、これが正解ですわ。いやぁ世の中不思議なことがいっぱいね」が真相。つまり、「論理的でさえあれば本格ミステリって読んでいいんだよね?」という問いかけ。もちろん『捜査』が書かれた時代にもレムの住んでたポーランドにも<本格>だなんてヘンチクリンな言葉はなかったわけだけど、それでも批評性は抜群じゃあなかろうかと。とはいえレムはミステリが大っ嫌いだったらしいのでどういう意図で『捜査』を書いたのかは、まぁアレっすな。閑話休題。『鉄鼠の檻』はそんなわけで「アーベル群っつったって実数もあれば複素数もあるわいな」な感じで、僕らのこの世界の代わりに「禅」の場を敷いちゃった。推理は「禅」でやらなきゃいけないし、当然解決も「禅」。「禅」がないと解決できない。もともと京極夏彦は、不可解な現象を妖怪っていう軸に射影して解釈するっていうビックリするような推理法を見つけちゃったわけだけど、世界そのものを別のものにスライドさせちゃって見事着地したのがこの作品のすごいところ。『捜査』も『生ける屍の死』も大好きだし、もっと言うなら『第八の日』も『ガラス箱の蟻』も大好きな僕が、この作品が嫌いなわけがないじゃない。

それから『絡新婦の理』。いまの若い人は知らんじゃろうが、そのむかし誰が言い出したか「後期クイーン問題」というのがあってだねぇ、とはいえ僕はその後期クイーン問題が結局なんなのかよくわかってないので引用(1)「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」(2)「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」だってさ。僕はこのこれを見るたびに「誰かソーカルしねぇかなぁ」とワクドキしてたんだけどついぞそういうことにはならなんだ。ゲーデルがどうだのハイゼンベルグがどうだの、いまだになにがなにだかわかってない。真面目に読んでないだけなんだけどね。これの(1)については麻耶雄嵩が『メルカトルと美袋のための殺人』で明確な答えを出しちゃってる。(2)についてはクイーン自身が『帝王死す』で見切っているような気がしてる(僕が勝手にそう思ってるだけだよ、為念)。両方についてバチコーンと見切ったのが『絡新婦の理』。それぞれ榎木津と京極堂がその役割を果たしてる。あとこの話はプロットが綺麗だよね。真相が繰り込まれて折り畳まれてあるべきところに収まっちゃってる。「この時代に構造主義はまだないんじゃないの?」というツッコミはさておき、京極堂の自己言及的な言説が作品自体の性質と相まってとてもとても面白い。

そんなわけで京極夏彦。むかし読んだときはちっともワケわからんかったけど、いま読んだら大層いろんなものがぶち込まれていることがよくわかった。こりゃあ楽しい。ホントは『絡新婦の理』で終わる予定だったんだけどついつい調子にのって『塗仏の宴』に突入しちゃった。実は『塗仏の宴』は一度読んでいるはずだけど全然覚えてない。「すげーツマラナイ」と感じて以降京極夏彦の本は殆ど読んでない。『嗤う伊右衛門』とか『ルーガルー』とかちっとも。とりあえず『邪魅の雫』まで読んでまだまだ勢いが衰えなかったら京極夏彦再評価、ということで。

酒の席で『ひぐらしのなく頃に』が好きだといった上司に対してあれはだめです許せないですと反論したらなぜだと訊かれた。「プリンに醤油をかけて食ったらウニの味がするとか言うでしょう? まかり間違ってウニの味がしたとしましょう。でもそいつはウニの味がする醤油をかけたプリンを食っただけなんです。そんな大馬鹿野郎がウニうまいウニうまいとあなたに報告してきたら、殴りたくなりませんか? 同じことです。誰も味噌と糞を見分けろという話はしていないのです。糞を味噌だと言い張るその根性が許せないのです。しかもその根拠はただ単純にそいつがウニ食ったことないだけなんですよ」と説教した。上司が「ところでお前はマクドナルド大好きか」と訊いたので僕はすかさず「大好きですっ!」と答えましたとさ。

ジャンクはジャンクで需要があるので、ウニの味がする醤油プリンにも需要があるのでしょう。醤油プリンを愛でるかウニを愛でるかはその人次第で、場合によっては醤油プリン好きがウニの味を品評することもあるだろうし、ウニ好きが醤油プリンキモいと足蹴にすることもあるでしょう。そんなの当事者の勝手です。とすれば残るのは醤油プリン好きがウニの味を品評するテクニックであったり、ウニ好きが醤油プリンを蹴飛ばすテクニックになるのでしょう。どちらが高尚どちらが低俗とか、そういう話じゃあない。一方で、ウニは高い。僕の祖母が住んでいる某島では瓶詰ひとつで1500円とかしていたような気がします。醤油プリンは高々150円。アクセスの容易さは圧倒的に醤油プリンのほうにある。とすれば醤油プリンには人が集まるのだろうし、ウニには人は集まらないのでしょう。金持ち貧乏の話じゃあないのです。ただの8020の法則の話です。声の大きさはともすればその中に納まる人間の数によって判定されるわけでしょう? そういう話なのです。とはいえ、ウニ好きの80と醤油プリン好きの20の、どちらが幸せなんでしょうかね。

そんなわけで、4連休取得して京極夏彦読みまくり。明日実家につくころまでには絡新婦を読み終えることができるかな。

ぼくの数ある汚点の中でも最上位のものの一つである「転職未遂事件」についてその大失敗しそうだった転職先の行く末がことあるごとに気になっていたのでヲチしていたわけですがある時期からその会社のサイトから社長以下役員の名前が消えておりましてはてさてなにごとかと不思議に思っておったところついさきほど答えを見つけました。社長逮捕、とのことでした。ぼくが転職しないことを決めたその10か月後のことらしいです。ふぉうふ。「派遣先に引き抜かれまっせ」と当時の勤務先の支店長に伝えたら「君の人生だから私は詮索しない。正しければそれでよい。間違っていても結果として良い経験をしたと判断できるのだったらそれでよい。ところで君はそう自分に言い切れるほどの納得を得ているのか?」とちょー大人の説教をされてむむむと困ったので困ったときのグーグル先生に尋ねたところ転職候補先の社長さんがかなりアレなお方だということが判明して「マジ申し訳ない」と大人泣きしたことも昨日のことのように覚えておるわけですよ。まぁ、勤務中に「**くん、これを読みなさい」と梅田望夫ウェブ進化論』を渡されたときは「うーん、ちゃめっ気のあるかわいい人だなぁ」と軽く受け流したものの、よくよく考えるとあれはマジだったのかと、世の中僕のように日々を怠惰に過ごしていてことあるごとに手を抜こうとしたりけけけっと笑い飛ばしたりするような人間ばかりじゃあないということだったのかと、よくよく空恐ろしいことだと、そう感じたものでした。大学時代の友人と修善寺に行って「いやぁ、派遣先で"うえぶしんかろん"を薦められちゃいましたよー」「ジョークだとしたらホントにタチが悪いし、ジョークじゃなかったらホントにタチが悪いね」とケラケラ笑い飛ばしたものです。閑話休題。現在その転職先が入っていた場所は子供向け英会話教室になっているらしく、本社の場所も賃料が安そうなところに移設したらしく、ことここに至って2年半前のあの決断がちっとも間違っていなかったことが明らかとなり、当時の支店長の言葉がズンと重たくなったわけでした。
結局その後、別の会社に転職したわけで、じゃあいま幸せかと聞かれたら、「そこそこ」としか答えようがないわけで。

姫川明『グライディングREKI』について、あたくし、1年半まえにこんなことを書きました。

ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい。

いまebookJapanで2冊買いました。いま1巻を読んでます。これは紙じゃあ無理です。絶対無理です。ちょー美しい絵を画面いっぱいに拡大して縮小してアレやコレやと手元でいじり倒してしゃぶり尽くすのは至福以外のナニモノでもございませぬ。画面いっぱいに飛び交う色がドキドキです。ヤバすぎです。幸せです。こんな身近なところで、たかだか1,050円支払うだけで、こんなに幸せになれるなんて、あぁやっぱり21世紀は素晴らしい。今日職場で上司に「iPhoneですよ。21世紀ですよ」と軽口叩いていた自分が、よもや自宅で、しかも本で、いまさらながらに21世紀を感じるとは思ってもいませんでしたよ。

でもっ!

これ、iPhoneでは読めないらしいのですよ。ちぇ。職場に持っていって「ほら、これがメディアですよ」と鼻の穴ピクピクさせたかったのにさ。